教えのやさしい解説

大白法 557号
 
柔和忍辱衣(にゅうわにんにくえ)
 柔和忍辱衣(え)とは、法華経の『法師品(ほっしほん)』などに説かれた「衣座室(えざしつ)の三軌(さんき)」の一つです。衣座室の三軌とは、釈尊が薬王(やくおう)菩薩に釈尊滅後(めつご)に法華経を弘通(ぐずう)するための三種の心得(こころえ)を説いたもので、弘経(ぐきょう)の三軌ともいいます。
『法師品第十』には、
「若(も)し人此(こ)の経を説かば 応(まさ)に如来の室に入(い)り 如来の衣を著(き) 而(しか)も如来の座に坐(ざ)して 衆(しゅ)に処(しょ)して畏(おそ)るる所無く 広く為に分別(ふんべつ)して説くべし 大慈悲を室と為(な)し 柔和忍辱を衣とし 諸法空(くう)を座と為(な)す 此(ここ)に処して為に法を説け」(法華経 三三一n)
と、仏の滅後に法華経を説く者は、如来の室に入(い)り、如来の衣を着、如来の座に座して法を説くように示されています。このうち、如来の衣が「柔和忍辱の衣」のことです。

柔和忍辱の意(い)
「柔和」とは、一般的に顔つきや性格が優(やさ)しくゆったりとしている様子(ようす)をいいます。経文に説かれる柔和は、仏と自分との関係において、自分の心の中に仏の教えを深く観(かん)じ、考えて、そして仏の教えにきちんとしたがっていくという、柔(やわ)らかで純真な気持ちを持(も)つという意味です。私たちが御書を拝読したり、御法主上人猊下の御指南、指導教師の御指導を受けた場合、それらを自分の身に当てはめて考えていきますが、その時に自分の都合(つごう)のいいように解釈してはいないでしょうか。
「相構(あいかま)へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記(しる)し給(たま)ひしなり」(御書 六六九n)
と御教示されています。自分の心(我見)を師とするのではなく、私たちの師匠である大聖人の教え、つまり御法主上人猊下の御指南や指導教師の御指導に素直な心でしたがっていくことが大切なのです。
「忍辱(にんにく)」とは仏教用語(ようご)で、苦悩・迫害・侮辱(ぶじょく)に耐(た)え忍(しの)んで、心を動かさないことをいいます。
 前の柔和は仏と自分との関係の問題でしたが、それとは反対に、忍辱は仏様の教えを形において表(あらわ)す、すなわち、仏の教えを実践した場合のことです。正しい法を持(たも)ち弘宣(ぐせん)すれば、必ず誤(あやま)った心や誤った教えを持った人から謗(そし)られたり、辱(はずかし)められます。そのように謗られ、辱められたときに、仏の教えにしたがって、忍ぶ心を持って堪(た)えていくということが忍辱です。決して相手に対して感情的に怒(おこ)ることなく、「これが自分の修行だ」と思って忍ぶことをいうのです。

我が身を飾(かざ)る柔和忍辱の衣
 衣には、身体(からだ)をよく覆(おお)うという意味があります。私たちは衣服(いふく)を着なくては寒さで身体をこわしてしまいます。また、暑いときには汗(あせ)を吸収(きゅうしゅう)したり体温を調節(ちょうせつ)する役目もあります。このように、衣には暑さ寒さから身体を覆って護(まも)る、すなわち人間の命を護るという大きな意味があります。
 『法師品第十』に、
「如来の衣とは柔和忍辱の心是(これ)なり」(法華経 三二九n)
と説かれているように、柔和忍辱の心や振る舞いは、仏の悟(さと)られた法の功徳を覆って護る姿であり、それはそのまま如来(仏)の衣なのです。このように、柔和忍辱は仏法における衣の用(はたら)きをして仏法の功徳を護り、また行者を護るのです。
 また衣は、身体(からだ)を守るのと同時に、我が身を飾るものでもあります。これと同じように、柔和忍辱の衣は私たちの身を飾ってくれるのです。
 大聖人は『御衣並単衣(おんころもならびにひとえ)御書』に、
 「又法華経を説く人は、柔和忍辱衣と申して必ず衣あるべし」(御書 九〇八n)
と御教示されています。
 法華経を説く人とは仏の教えを素直に実践している人ですから、必ず柔和忍辱の衣を着ています。この衣は如来の衣ですから、どんな衣服よりも最高の衣です。
 したがって、日蓮大聖人の仏法を素直に信じ、実践する人は、たとえ実際には衣は着ていなくても、あたかも立派な衣服を身につけているように、功徳に満(み)ち溢(あふ)れ、人間的に魅力(みりょく)ある輝(かがや)いている人であるということなのです。

柔和忍辱の衣を着て折伏実行
 本年は「折伏実行の年」と銘打たれ、平成十四年の三十万総登山をめざして一人ひとりが折伏を実行すべき年です。
 日蓮大聖人は『如説修行抄』に、
 「諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独(ひと)り成仏の法なりと音(こえ)も惜(お)しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共(とも)に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵(ごうてき)(き)たらん事は疑ひ無し」(同 六七三n)
と御教示されるように、折伏は末法の衆生の私たちの大事な修行です。本年はこの大聖人の御教示を柔和な心、すなわち素直に拝して折伏を実行することが大切です。
 しかし、折伏を行ずる者には、三類の強敵のような種々の障害が現れてくるのです。中でも池田大作らにすっかり洗脳(せんのう)された創価学会員による脅迫(きょうはく)、尾行(びこう)などの常軌(じょうき)を逸(いっ)した行動は、目に余(あま)るものがあります。しかし、私たちは唱題を重ね、畏(おそ)れることなく忍辱の心をもって折伏を行じていかなければなりません。
 御法主日顕上人猊下は「新年の辞」に、
 「折伏成就のために最も大切なことは唱題行であり、いわゆる崇高(すうこう)な折伏という目的を持った唱題こそ、強い生命の力をもってすべての生活の案件(あんけん)がおのずから開け、調(ととの)う功徳を生ずるのである」(大日蓮 六四七号)
と御指南されています。柔和忍辱の心で折伏という目的をもって唱題に励み、折伏を実行していくならば、私たちの境界が開かれ、様々な功徳を生(しょう)じ、衣の徳によって我が身が飾られるのです。
 今後も宗旨建立七百五十年をめざして唱題、折伏にますます励んでまいりましょう。